【新着】野々下由香里/桐山建志/小倉貴久子の歌曲集(ハイドン)

今日は最近仕入れた珍しいアルバム。

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浜松市楽器博物館コレクションシリーズ52「スクエアピアノとイギリス家庭音楽の愉しみ」と題されたアルバム。収録曲目はハイドンの歌曲3曲、クラヴィーアソナタ1曲、他にクレメンティ、ヨハン・クリスチャン・バッハのクラヴィーアソナタ、モーツァルトの歌曲、キラキラ星変奏曲などを収めたアルバム。収録は2013年1月2日から4日、アクトシティ浜松音楽工房ホールでのセッション録音。浜松市楽器博物館オリジナルプロダクション。

もちろんハイドンの曲目当てということで手に入れたアルバムです。まずはこのアルバムをリリースしている浜松市楽器博物館について調べてみます。

浜松市楽器博物館

浜松といえヤマハ、カワイ、ローランドなど音楽に関係する企業の本社があるため、浜松市も「音楽のまち」として音楽で町おこしをしています。浜松駅前のアクトシティには立派なコンサートホールが2つもあり、また、この楽器博物館もそうした音楽振興の一環でつくられたものでしょう。浜松駅の北口からすこしのところに博物館があるそうで今年で20周年とのこと。今日取り上げるアルバムジャケットの右上にも楽器博物館20周年と誇らしげに記されています。ウェブサイトを見てみると収集している楽器はヨーロッパのみならずアジアやオセアニア、もちろん日本のものもあり、雅楽器から現代の洋楽器、電子楽器までと幅広いコレクション。そしてお気づきだと思いますが、今日取り上げるアルバムは浜松市楽器博物館コレクションシリーズのなんと52巻目ということで、楽器収集のみならず、こうしたプロダクションにもかなり力を入れていることがわかります。

このアルバムは楽器博物館の所蔵品である1805年クレメンティ社によって発売されたトーマス・ラウド(Thomas Loud)制作のスクエアピアノを演奏したもの。1806年といえばまだハイドンが存命、と言っても最晩年ですが、同じ時代のもの。スクエアピアノは現代のグランドピアノのような大型のものと異りリーズナブルな価格やコンパクトな形状からこの頃以降、イギリスの中産階級の家庭で大流行したとのことで、このピアノで歌曲などを楽しむというのは誠に理にかなったもの。所有する楽器の楽しみ方を心得たプロダクションですね。ライナーノーツには楽器の詳細な解説、演奏者の情報、曲目解説、歌詞まできちんと載せられ、しっかりとしたプロダクションであることがわかります。

演奏者について触れておきましょう。
スクエアピアノは小倉貴久子さん。コンサートや録音でご存知の方も多いでしょう。芸大、アムステルダム音楽院を卒業後、1993年ブルージュ国際古楽コンクールのアンサンブル部門、1995年同フォルテピアノ部門で1位となり、以後国際的に活躍しています。
ヴァイオリンの桐山建志さんは、芸大、フランクフルト音楽大学を卒業後、1998年同じくブルージュ国際古楽コンクールソロ部門で1位となった人。
そしてソプラノの野々下由香里さんは、芸大、パリのエコール・ノルマル音楽院を卒業、バッハ・コレギウム・ジャパンのソプラノソリストとして多くのアルバムの録音に参加しているのでご存知の方も多いでしょう。

Hob.XXXIa:112bis - JHW XXXII/3 No.262 "Green sleeves" (Robert Burns)
古楽器のヴァイオリン特有の鋭い音色と、フォルテピアノのような音色のスクエアピアノによる伴奏から入ります。ハイドンの編曲によるスコットランド歌曲集では本来チェロが入るのでしょうが、このアルバムではヴァイオリンが加わるのみ。ヴァイオリンの桐山建志さんは非常に存在感のある音色。メロディはシンプルなのにぐっと沁みるヴァイオリン。よく聴くとスクエアピアノはフォルテピアノと比べて特に低音部の迫力は抑え気味、楽器の大きさからでしょうか、優しい音色ですね。ただ驚くのは音色のピュアさ。よほど調律が追い込まれているのでしょう、響きに濁りがなく、高音から低音まで、実に気持ちよく響きます。録音はこうした楽器に焦点を合わせたプロダクションとしてはちょっと異例で、ホールでゆったり音楽を楽しむような残響が比較的多めの録音。もう少しスクエアピアノの音色をオンマイクで拾っても良いかもしれませんが、ゆったりと音楽を楽しむには絶好のもの。
ここまで歌に触れずにきましたが、このアルバムの聴きどころは野々下由香里さんの歌でしょう。出だしから素晴らしい歌唱。日本人の歌唱だと言われなければ気づかないほど自然な英語で、しかも古楽器に合う透明感のある声。私は野々下さんは初めて聴く人、と思ってバッハ・コレギウム・ジャパンの手元のアルバムを何枚か見てみたら、野々下さんの参加しているアルバムがありました。ということで、私は野々下さんは「意識して」聴くのは初めて、ということになります(笑)
このグリーン・スリーブスはおなじみのヴォーン・ウィリアムスのメロディーのものとは違う曲ですが、スコットランド歌曲集の特徴である郷愁を感じさせる独特な雰囲気を持っています。小倉貴久子さんのスクエアピアノは実に端正。最初はちょと踏み込み不足に聴こえなくもありませんが、聴きなおすと、清々しさを感じさせるような心地良さがあり、リズム感も抜群、そして音の粒が揃って、理想的な演奏。完璧な自然さとでも言ったらいいでしょうか。1曲目から素晴らしい演奏に酔います。

Hob.XXVIa:25 6 Original Canzonettas 1 No.1 "The Mermaid's Song" 「人魚の歌」 [C] (1794)
おなじみの曲。この曲の伴奏はスクエアピアノのみ。小倉貴久子さんの華麗な伴奏に乗って野々下さんも気持ち良さそうに歌います。スクエアピアノの音階が宝石のように光り輝き、美しく躍動します。この曲の伴奏の中ではピカイチ。前曲同様、非常に楽器の響きが澄んでいますね。3分少々の曲ですが既にうっとり。

Hob.XVI:41 Piano Sonata No.55 [B] (c.1783)
2曲の歌曲の後に2楽章のピアノソナタが入りますが、このあたりでスクエアピアノの音色を純粋に楽しめということでしょう。ここでも小倉貴久子さんのタッチは冴え渡って、まるで自分が所有する楽器のように馴染んでます。非常に演奏しやすそう。先日生で聴いたクラヴィコードもそうでしたが、家庭などの少人数で楽しむには必要十分というより、むしろ、この身近さがよりふさわしいと言ったほうがよいのでしょう、ほどほどのダイナミクスに透明な響き、楽器のそばで演奏を楽しむという意味ではピアノやフォルテピアノよりもふさわしいと思わせる説得力がある音色。それにしてもコピーではなく実際に1806年に製造された楽器ということで、この楽器のコンディションは驚異的。高音から低音までの音の素晴らしい音のバランス。ビリつきは皆無。実に澄んだ音色と三拍子そろっています。そして小倉さんの素晴らしい演奏で、楽器も喜んでいることでしょう。まさに自宅でハイドンのソナタを楽しむ境地。絶品。

この後、クレメンティ、クリスチャン・バッハ、モーツァルトの曲が挟まりますが、中でもクリスチャン・バッハのクラヴィーアソナタ(Op.5-3)のスクエアピアノから繰り出される色彩感豊かな響きと、モーツァルトのおなじみのキラキラ星変奏曲の純粋無垢な音色は秀逸。スクエアピアノのニュアンス豊かな響きに引き込まれます。

Hob.XXXIa:218 - JHW XXXII/5 No.388 "Auld lang syne" (Robert Burns)
アルバムの最後に置かれたスコットランド歌曲集から蛍の光。ヴァイオリンとスクエアピアノに乗って野々下さんの歌う、スコットランド風の蛍の光。いやいや、スコットランドの草原に立って風を浴びているような心境になりますね。名手3人が繰り出す自然な音楽の浸透力の素晴しさに打たれます。音楽の力とはすごいものですね。日本では卒業式の合唱か閉店のBGMのメロディでしょうが、こうしてソプラノとヴァイオリン、スクエアピアノでハイドンの手による伴奏で聴く蛍の光の深さはまったく異なる力をもっていることがわかります。いやいや、いいアルバムです。

まことに失礼ながら、浜松市楽器博物館コレクションシリーズというプロダクションから想像される出来とは異なり、まことに素晴らしいプロダクションでした。貴重なコレクションであろうこのスクエアピアノの素晴らしさを完璧に伝える好企画。しかも演奏者、選曲、楽器のコンディション、調律、録音、すべてお見事。公共の仕事でここまでレベルの高い仕事はそうあるものではありませんね。評価は全曲[+++++]です。これはこのシリーズの他のハイドンの録音、聴かなくてはなりません。

期待を込めてあえて一つだけ課題をあげればジャケットでしょうか。タイトルもスクエアピアノの写真をメインとしたデザインも悪いわでではありませんが、このアルバムの中身の素晴しさ、演奏者の素晴しさを伝え切れていない感じも残ります。このプロダクションにデザインの力が加われば世界で勝負できると思います。今後に期待です。

そして、この楽器博物館、一度訪れてみなくてはなりませんね。このアルバムから伝わる制作者の心意気、しっかり受け止めました。当ブログの読者のハイドン好きな皆さん、このアルバムは買いです。ハイドンの時代の空気を吸ったような気持ちになります。

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tag : スクエアピアノ スコットランド歌曲 英語カンツォネッタ集 ピアノソナタXVI:41

【新着】リヒテルのピアノソナタライヴ集

せっかくのお休みですが、風邪をひいて喉がガラガラ。会社でも同じ風邪をひいている人が多かったのでうつってしまったよう。今日は出かけずに家でのんびり。

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HMV ONLINEicon / TOWER RECORDS

スヴャトスラフ・リヒテル(Sviatoslav Richter)のソ連時代の録音を集めたCD9枚組。この中のCD1がハイドンのピアノソナタ集となっており、Hob.XVI:20、XVI:41、XVI:50、XVI:52の4曲が収められています。収録は何れもモスクワでのライヴであり、XVI:52が1949年の他は1960年代のもの。それぞれ日付が異なるため、曲のレビューと一緒に収録日は記載することとします。レーベルは露Venezia。

このアルバムは最近リリースされてHMV ONLINEから届いたもの。これまでHMV ONLINEは出荷が遅く、注文して在庫がそろっていても、2、3日してから出荷になるケースが多く、すぐにつくとは思っていませんでした。ところが数日前に注文を入れるとすぐに在庫がそろって、すぐに出荷となりました。ウェブサイトにも在庫ありのものも13時までの注文は当日出荷とうたいはじめてますので、出荷体制がだいぶ変わってきたのでしょうか。これまでもマルチバイにすると値段は安い事が多いので、HMV ONLINEを使うことが多かったですが、出荷体制はお世辞にも良いとは言えなかったので、これで少し皆さんにもすすめやすくなりましたでしょうか。

さて、リヒテルはハイドンを好んでいたようで、ライヴを中心にアルバムはかなりリリースされています。手元にもかなりの数のアルバムがありますが、記事として取りあげたのは調べてみると2回のみ。しかも最初の記事はアバムの紹介程度でしたので、ちゃんとリヒテルのアルバムをレビューしたのは1度きりとなります。

2010/11/23 : ハイドン–ピアノソナタ : リヒテルの1993年のソナタ録音
2010/02/23 : ハイドン–ピアノソナタ : リヒテルのソナタ録音

前にも書きましたが、リヒテルのハイドンは力感の表現が秀逸でかつ音楽が大きく、好きな演奏です。ただし、ライヴがかなり出ていて、何となく演奏同士、比較してみなくてはいけないとの先入観から、レビューに取りあげにくかったのかもしれません。

前記事を読み直してみると、リヒテルの略歴等にも触れておりません。自分の知識のためにちょっとさらっておきましょう。

スヴャトスラフ・リヒテルは1915年、現ウクライナのキエフの西100kmほどのところにあるジトームィルで生まれました。父はドイツ人ピアニスト。幼いころに黒海沿岸のオデッサに移住、父親はリヒテルに音楽を教えましたが、音楽家にしようとは思わなかったそうで、後にオデッサで処刑されてしまったとのこと。リヒテルは独学でピアノをはじめ、1931年に15歳でオデッサ歌劇場のコレペティートルに採用され、この時多くのオペラ曲の演奏を通じて腕を磨きました。1934年、19歳で小規模なリサイタルを開き、成功したとの事。1937年22歳でモスクワ音楽院に入学し、名教師ゲンリフ・ネイガウスに師事します。ネイガウスはリヒテルの他、エミール・ギレリス、アナトリー・ヴェデルニコフ、ラドゥ・ルプーらの師として知られ、スタニスラフ・ブーニンは彼の孫とのこと。ネイガウスはリヒテルに「何も教えることはなかった」と語り、リヒテルはネイガウスから多くの事を学んだと言っているとされ、これ以上の師弟関係はないような間柄だったと想像できます。その後ネイガウスの紹介でプロコフィエフと親交を持つようになり、1943年モスクワでプロコフィエフのピアノソナタ7番を初演しました。以後ソ連内で活発に演奏活動をするようになり、1945年には30歳で全ソビエト音楽コンクールピアノ部門で第1位を受賞しました。以後東欧で公演を行い、西側にもその評判が伝わるようになり、「幻のピアニスト」と呼ばれるようになりました。1958年ブルガリアのソフィアで行ったリサイタルでの「展覧会の絵」などによって全世界に知られるようになり、ヴァン・クライバーンが「生涯で聴いたなかで最もパワフルな演奏だった」と語ったことで評価が決定的となったとされます。1960年にようやく西側での演奏が許可され、以後は日本を含む世界各地に演奏旅行に出かけ、1997年8月にモスクワで82歳で亡くなったということです。

私はリヒテルのハイドンはいろいろ聴いてますが、ベートーヴェンや展覧会の絵などの演奏はちゃんと聴いていません。リヒテルのアルバムで最初に買ったのはバッハの平均率クラヴィーア曲集。淡々とかつ雄弁に語っていく音楽の大きさに打たれたアルバムでした。

Hob.XVI:20 / Piano Sonata No.33 [c] (1771)
1960年代、モスクワでのライヴとだけ記載されています。リヒテルの詩情溢れるピアノが少し遠めに定位し、会場ノイズがわりと大きめに入っています。最初に何かぶつかったような音がします。高域はちょっと混濁気味ですが、リヒテルのピアノの宝石のような輝きはしっかり伝わります。テンポのコントロールは大胆。曲が大きく転換するところで大きくテンポを落とします。ピアノの音は確かな骨格に裏付けられたカッチリとしたもの。ハイドンの名曲の光と陰を鮮明に描いていきます。テープの転写か、先の音がうっすら聴こえてきます。速いパッセージのキレの良さと、ダイナミックレンジは録音を超えて伝わってきます。時折みせる右手の強音はホールを突き抜けるような力強さ。この曲独特の物憂げな印象と冬の星空のような凛とした美しさを実に上手く表現。やはり抜群の力感がものを言います。
咳払いが終わらぬうちに美しいアンダンテ・コン・モートがはじまり、右手の輝きは最初から閃光を放ちまくってます。意外にさらさらとすすめていき、左手の伴奏も正確なリズムに支えられて、鋼のような強靭さ。メロディーの主張の仕方というか、立体感が尋常ではありません。大きく音楽をとらえて大波が押し寄せては消えていくように美しいメロディーが次々とやってきますが、リヒテル自身は非常に冷静に音楽を作っているよう。素晴しく峻厳な音楽。詩情がただよう演奏が多いのですが、全盛期のリヒテルにかかると、豪腕投手の内角高めの豪速球のような厳しいアプローチ。有無をも言わせぬ迫力。ピアノからオーラが出まくってます。
驚くのがフィナーレの力感。ハイドンの曲でここまでのピアニズムを感じるとは。ピアノが鳴りきっています。指の一本一本が鋼で出来ているような素晴しい力感。音の力でもテクニックでも並のピアニストは次元が違います。1曲目から驚きの演奏。全盛期のリヒテルのエネルギーがスピーカーを伝わって、風邪で弱り気味の脳髄直撃です。まさに縦横無尽にピアノを操ります。痺れました。会場からは驚き混じりの拍手が降り注ぎます。

Hob.XVI:41 / Piano Sonata No.55 [B] (c.1783)
つづいて1961年4月17日のモスクワライヴ。前曲の混濁感はなくなって、鮮明さが上がりますが、高域重視の録音。鮮明に咳払いが録られています。いきなり右手のキレの良さに打たれます。速めのテンポながらアクセントがキレまくって、鮮烈な印象。速いパッセージの指が回っているのはもちろん、要所のアクセントが決まりまくって、痛快なほど。ハイドンの原曲の面白さもありますが、アクロバティックにも感じるリヒテルの指さばきにただただ聴き惚れます。鍵盤の上で指が踊りまくっているよう。1楽章の終盤に至り、渾身の打撃でまたもピアノの轟音が響き渡ります。本気ですね。
つづくアレグロ・ディ・モルトも良くこれだけのエネルギーをハイドンの曲に込められるものと感心しきり。速めのテンポで弾き進めていきますが、途中耳をつんざくような強音を何回か聴かせて、この2楽章の小ソナタに込められた本当のエネルギーを知らしめます。最後の一音と同時に拍手が振り注ぎますが、なぜかフェードアウトではなく、さっとヴォリュームを絞る唐突な終わり方。演奏の素晴しさを損なうものではありません。

Hob.XVI:50 / Piano Sonata No.60 [C] (probably 1794)
晩年の名曲。1960年9月24日のモスクワでのライヴ。この演奏はおそらく同じ演奏が手元に別のアルバムであります。前曲と似た音響ですが、このアルバムでは一番聴きやすい音。リヒテルは相変わらず、細かい事は気にせず、速めのテンポでバリバリ弾き進めます。後年のリヒテルの演奏は力感と知と情のバランスが絶妙なんですが、この時期の演奏は抑えきれない表現欲からか、ハイドンのソナタに潜む力感の極北を示すようなアタックの連続。無限に動く指と、ピアノと言う楽器のもつダイナミックレンジを遥かに超える強音を交えながら、他のピアニストには絶対に真似の出来ない世界を築いていきます。この曲でもアクセントのキレは尋常なものではありませんが、それがくどくなく、ピアノ音楽の極限んを示すように聴こえるところがスゴいところ。
続くアダージョは、しっかりテンポを落として、磨き抜かれた美音が轟きます。くっきりとアクセントがついてメロディーは恐ろしいほどの立体感。録音は鮮明で、その鮮明さを物語るようなリアルな咳払いが録られています。リヒテルのピアノは神々しい光を帯びたようにこの素晴しい楽章のメロディーを奏でていきます。まさに奇跡の瞬間のような演奏。会場の聴衆は完全にリヒテルの演奏に呑まれています。
最後のアレグロ・モルトは、意外にテンポを揺らさず、噛み締めるように入りますが、途中から強音炸裂。速いばかりじゃないとでも言いたげに、じっくり演奏が進みます。ここでも拍手はさっと消えます。

Hob.XVI:52 / Piano Sonata No.62 [E flat] (1794)
最後の曲。1949年5月30日、モスクワ音楽院グランド・ホールでのライヴ。この曲のみモノラルです。先の3曲から10年以上前の録音。迫力も自在さも一段下がりますが、右手のクリアなタッチがリヒテルらしさを感じさせます。なぜか録音はモノラルながらかなり良く、鮮明さはこのアルバム一番。モノラルなので空間を感じさせませんが、オンマイクでかなり鮮明にピアノの美音を録っています。所々ミスタッチがありますが、グールドの愛用したチッカリングピアノのような独特の高音の響きがあり、なかなか良い音色。スケール、特に音楽のつくりの大きさは後年のものに譲りますが、タッチのキレは流石リヒテル、指の回転は素晴しいものがあります。
つづくアダージョも前3曲と比べるとオーソドックスな演奏ですが、鮮明なピアノのタッチのキレでグイグイ聴かせていき、この楽章特有の孤高の表情を描いていきます。
フィナーレに入ると、指の回転を上回る超絶テンポ設定にリヒテル自身も絡まり気味ですが、そんなことは気にせず、グイグイいきます。ここまでくるとリヒテルの演奏スタイル耳のほうが合ってきて、完全にリヒテル術中にはまったよう。ブレンデルらが聴かせる研ぎすまされた世界とは全く異なる鋼のようなハイドンでした。

このアルバムで聴かれる特に1960年代のリヒテルのハイドンは一般的なハイドンの演奏とは全く異なり、かなり速めのテンポでハイドンのソナタに潜む力感を鋼のようなタッチで演奏したもの。ハイドンのピアノソナタの定番としてお薦めするにはちょっと無理がありますが、ハイドンのソナタの極北を示す演奏として、そしてリヒテルの全盛期の記録としては貴重な記録であることは間違いありません。リヒテルの全盛期の演奏は、決して誰にも真似の出来ない強靭なタッチ、狂気のような強音、何も躊躇することのない直裁なアプローチが鮮明に印象に残りました。評価は60年代の演奏はやはり[+++++]をつけない訳に参りません。最後のXVI:52は[++++]とします。

リヒテルの後年の演奏はこれに比べるとだいぶ穏やかになり、それでも力感と大きな音楽が宿る素晴しい演奏であり、一般的にはそちらをお薦めすべきでしょう。

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マーシャ・ハジマーコスのクラヴィコードによるソナタ集

今日は古の響きへ。

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マーシャ・ハジマーコス(Marcia Hadjimarkos)のクラヴィコードによるハイドンのピアノソナタ6曲(Hob.XVI:32、XVI:44、XVI:48、XVI:20、XVI:41、XVI:42)を収めたアルバム。収録は1993年10月、スイスの北端バーゼル近郊のヴァルデンブルクという街でのセッション録音。レーベルはharmonia mundi傘下のZIG ZAG TERRITOIRES。

マーシャ・ハジマーコスの参加したアルバムは、以前一度取りあげています。

2011/03/19 : ハイドン–声楽曲 : 【新着】エマ・カークビーの歌曲集

ハジマーコスの略歴を前記事から引用しておきましょう。

マーシャ・ハジマーコスはアメリカ人のよう。幼少の頃からピアノに親しみ、マイケル・グレイブスのショートケーキのようなポストモダン建築の代表作、ポートランド市庁舎で有名なオレゴン州ポートランドで学び、ピアノとフランス文学をアイオワ州立大学で学んだよう。その頃ハープシコードなど古楽器への興味を持つようになったとのこと。後にヨーロッパに移り、フランス国立音楽院でインマゼールなどとともに学んだとのこと。その後はフォルテピアノとクラヴィコードのスペシャリストとして活躍しているようです。

前記事を書いた時に触れたハイドンのソナタ集というのが今日取り上げるアルバムです。このアルバムは先日ディスクユニオンでようやく見つけて手に入れたものです。

このアルバムの特徴は何といってもクラヴィコードというフォルテピアノやハープシコードよりも古い楽器による演奏ということでしょう。クラヴィコードは机上において弾く長方形の箱形の楽器で16世紀から18世紀に広く使われた楽器。音量はフォルテピアノよりも遥かに小さく、また音の強弱の幅もかなり限られます。ライナーノーツによれば、ハイドンより一世代前のC.P.E.バッハは自身の即興的な曲の演奏にクラヴィコードを推奨していたとの事。ハイドンの時代にもおそらくクラヴィコードは使われていたでしょうが、ハープシコードやフォルテピアノなど、よりダイナミックな演奏が可能な楽器も現れてきていたはずです。このアルバムはこのクラヴィコードによる雅な響きがポイントになるわけです。楽器はトーマス・シュタイナー(Thomas Steiner)という人の昨。

Hob.XVI:32 / Piano Sonata No.47 [b] (1776 or before)
音量を上げて聴くと意外と張りのある音色。低域の強音はビリつき、明らかに楽器の限界を感じさせてしまいますが引き締まった音で鍵盤楽器というよりギターとかベースの強音に近い響き。ハジマーコスの演奏は速めのテンポでグイグイ攻め込むもの。楽器の限界はなんのそので、強音もかなりの力の入ったもの。この強音のビシッと引き締まったアクセントが特徴でしょう。フレーズの切れ目はすこしテンポを落とし、連続する音階に入ると素晴らしい推進力。この緩急の切り替えの面白さもハジマーコスの特徴かもしれません。
2楽章のメヌエットは楽器のダイナミックレンジが狭いので曲の構造を音量ではなくタッチの微妙な変化でつけていきます。繊細なフレーズコントロールがなかなか。
フィナーレはなぜか、それまでよりも残響が美しく響き、クラヴィコードの響きの魅力が一層引き立ちます。相変わらず左手の引き締まった強音がかなりの迫力で聴き応えがあります。楽器の限界を感じさせながらも、その範囲で楽器のキャパシティ一杯に弾きまくる感じ。後半は楽器が何度もビリつくほどのアタックで迫力溢れるもの。1曲目からクラヴィコードの演奏から予想した響きとはかなり異なるダイナミックな演奏でした。

ハジマーコスの演奏は曲によってスタイルは変化しますが、質はムラのないもの。以降各曲の聴き所のみ簡単にふれることにしましょう。

Hob.XVI:44 / Piano Sonata No.32 [g] (c.1771)
この曲は2楽章構成。短調の入りはクラヴィコードのほの暗い音色が似合います。聴き進むうちにすっかりクラヴィコードの音色の魅力にハマりました。曲想にあわせて、今度はとぼとぼとつぶやくような演奏。デリケートな音色とフレーズコントロールに耳を奪われますが、鮮明な録音によって楽器のフリクション音やハジマーコスの息づかいまで聴こえてきます。2楽章もとぼとぼとした感じが一貫して続きますが、やはり千変万化する響きに聴き入ります。

Hob.XVI:48 / Piano Sonata No.58 [C] (1787/9)
この曲も2楽章構成。ブレンデルの磨き抜かれた現代ピアノの音のイメージが染み付いた曲ですが、そのイメージを一瞬にしてぬぐい去るような雅な響き。かなりピアノによる演奏を意識したような演奏。ピアノそのままのような弾き方で、ピアノと全く異なる余韻を楽しめと言っているよう。クラヴィコードの響きに聴き入ります。この曲は曲想もあって素直な演奏に聴こえます。2楽章に入るとかなり速めのテンポで颯爽と吹き抜けるよう。前曲ではたどたどしかったような指の引っかかりが嘘のように指が良く回ってます。

Hob.XVI:20 / Piano Sonata No.33 [c] (1771)
2楽章の美しい調べが有名な曲。1曲目のダイナミックな演奏が嘘のようにしんみりと響くしとやかなクラヴィコードの音。この曲も短調の曲調に合わせた演奏スタイルでしょうか。期待の2楽章はおとぎ話のBGMのように沁みる響き。ピアノによるキラ星のような澄んだ美しさもいいですが、クラヴィコードの響きの余韻も悪くありません。3楽章は力強さと左手のアタックが戻って曲が締まります。

Hob.XVI:41 / Piano Sonata No.55 [B] (c.1783)
明るくダイナミックな演奏。冒頭から左手のアタック炸裂。1曲目同様音階部分とフレーズの切れ目の速度の変化が聴き所。終始切れのいい演奏。

Hob.XVI:42 / Piano Sonata No.56 [D] (c.1783)
どちらかというと3曲目のXVI:48に近い、ピアノの響きをトレースしたような演奏。速めのテンポで自然な余韻の美しさを上手く表現した演奏。

マーシャ・ハジマーコスのソナタ集はクラヴィコードという楽器での演奏の認識を改めるべきと感じた演奏。もとからダイナミックな音は表現できないものと思い込んでいましたが、逆に楽器の限界を感じさせることで、ダイナミックさを表現し、結果としては十分ダイナミックにも聴こえます。独特の音色と余韻は懐古趣味ということではなく、純粋に複雑かつデリケートな印象を生み、曲に新たな表情を与えます。曲によって演奏スタイルを変化させ、曲の聴き所のツボを見事にとらえています。聴き方によっては地味な演奏という評価もあるかと思いますが、私はこのアルバム、実に興味深く聴きました。従って評価は全曲[+++++]とします。

(2013年1月27日追記)
デレク・アドラムの演奏を聴き、全曲[++++]へ評価を修正しました。

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【新着】グリュミオー三重奏団のピアノソナタ編曲集

今日は珍盤。久しぶりに府中の山野楽器の店頭で手に入れた国内盤。アルテュール・グリュミオーの芸術と題されたシリーズの第2巻。最近最発売されたシリーズです。

GrumiauxTrio.jpg
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グリュミオー三重奏団(Grumiaux Trio)の演奏でハイドンのピアノソナタ3曲(Hob.XVI:40、XVI:41、XVI:42)をフランツ・アントン・ホフマイスター(Franz Anton Hoffmeister)が弦楽三重奏のために編曲したとされる曲とベートーヴェンの弦楽三重奏曲1番Op.3の4曲を収めたアルバム。ハイドンの収録は1969年2月、収録場所は記載がありません。レーベルはDECCAマークの国内盤。グリュミオーということで旧PHILIPS盤ではないでしょうか。

アルテュール・グリュミオー(Arthur Grumiaux)は良くご存知でしょう。以前にヴァイオリン協奏曲の記事で取りあげています。

2011/02/20 : ハイドン–協奏曲 : アルテュール・グリュミオーのヴァイオリン協奏曲

演奏者の情報はリンク先をご覧ください。もちろん、私の刷り込みは先の記事でもふれているようにハスキルとのモーツァルトのヴァイオリンソナタ集。グリュミオーのヴァイオリンの図太い美音とこちらも灰汁の抜けきったハスキルのピアノはもはや神憑ったような緻密さで、モーツァルトの素晴らしいメロディーを演奏していきます。図太い美音はグリュミオーならではの圧倒的な存在感を残しました。

今日取り上げるピアノソナタ3曲はもともと1783年頃の作曲で翌1784年にマリー・エステルハージ公爵夫人に献呈され出版されたもの。これが1788年に出版を盛んにしていたホフマイスターからヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの弦楽三重奏として出版されたもの。編曲はホフマイスターとする説もあるが、よくわからないとのこと。3曲ともピアノソナタとしては良く聴くものですが、この弦楽三重奏曲版もなかなか侮れない出来。まるで最初から弦楽三重奏曲のために書かれたような素晴らしい演奏です。

グリュミオー三重奏団のメンバーは下記の通り。

ヴァイオリン:アルテュール・グリュミオー(Arthur Grumiaux)
ヴィオラ:ジョルジュ・ヤンツェル(Georges Janzer)
チェロ:エヴァ・ツァコ(Eva Czako)

Hob.XVI:40 / Piano Sonata No.54 [G] (c.1783)
驚くのが録音の鮮明さ。1969年の録音としては素晴らしいもの。グリュミオーの美音がいきなり炸裂です。張りのある素晴らしいヴァイオリンの音色に圧倒されます。明るく少し郷愁を感じさせる聴き慣れたピアノソナタのメロディーが、素晴らしいテンションで弾かれます。リズムとかキレとかではなく、耳に飛び込んでくる素晴らしい緊張感。ヴィオラとチェロはあまりのヴァイオリンのテンションにやはり伴奏に回らざるを得ないでしょう。耳を突き抜けて心に刺さる音楽。小細工のない正面突破の演奏の迫力は素晴らしいものがあります。3人のアンサンブルは完璧。今日取り上げる3曲はすべて速いテンポの2楽章構成。2楽章は鮮明かつ素晴らしいキレの演奏。速めのテンポですが、その彫りの深さは切れ味の良い斧でザクザク丸太を刻むような趣。ただ切れ味鋭いだけではありません。ちょっとツボにはまりました。1曲目からもの凄い迫力に圧倒されっぱなし。

Hob.XVI:41 / Piano Sonata No.55 [B] (c.1783)
2曲目もテンションは衰えず、蒸気機関車が爆音を轟かせて走り去るところを眼前に観るよう。目の前で本当にヴァイオリンを弾いているようなリアリティ。これほどの強く美しい音色のヴァイオリンは知りません。全音域ハイテンション。うっすらと自動車の走るような暗騒音が聴こえるのが、不気味な迫力を増しています。この曲は曲想が穏やかで、休符を長めにとった印象的な演奏なんですが、それでもヴァイオリンの圧倒的な存在感は微塵もゆらがないのが凄いところ。アンプのヴォリュームを少し揚げて、美爆音に身を委ねる快感。良く聴くとヴィオラとチェロも少しざらつくような迫力ある音色でグリュミオーと音色が良く合っています。2楽章に入って少し流すような雰囲気も加わりますが、手加減はなし。

Hob.XVI:42 / Piano Sonata No.56 [D] (c.1783)
原曲は非常に美しいメロディーで好きな曲。編曲ものにありがちな不自然さは一切なく、これが原曲といわれても疑問はまったくありません。ホフマイスターの編曲だとしたら、相当な腕前と言わざるを得ないでしょう。もちろんグリュミオーの美爆音による素晴らしい演奏が合ってそう聴こえているのだと思います。弦楽三重奏の演奏を聴きながら脳内でピアノの響きが鳴り響きます。脳の老化防止に絶妙な効果がありそう。この曲ではチェロのエヴァ・ツァコの素晴らしい音色も堪能できます。脇も手堅いですね。
2楽章の速いパッセージもドンピシャのリズムとアンサンブルで完璧な演奏。痺れます。弦楽器の浸透力にしびれる演奏。

グリュミオーの美音が聴けるだろうというような軽い期待で聴いたこのアルバムですが、あまりのテンションの高さと突き抜けるような迫力に圧倒されっぱなしでした。正直弦楽四重奏曲の最高の演奏よりも、弦楽器の音色の魅力がダイレクトに味わえる素晴らしい演奏。人類の至宝レベルの演奏です。ハイドンのオリジナルの作品ではない可能性が高いですが、編曲も見事故ハイドンの作品と同等以上に緊密かつ機知に富んだ曲と言える出来。通りがかりに手に取り偶然みつけたアルバムですが、この素晴らしさは圧倒的でした。評価はもちろん全曲[+++++]とします。

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tag : ピアノソナタXVI:40 ピアノソナタXVI:41 ピアノソナタXVI:42 ヒストリカル

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なぜかハイドン(Franz Joseph Haydn)が特に気に入り膨大な録音をコツコツ集めてレビューしております。好きなものはお酒全般(ワイン、日本酒、モルトなど)、美味しいものを食べること、料理、鄙びた温泉めぐり、歌舞伎見物、スポーツクラブで泳ぐこと(美味しいお酒を呑むため!)などなど。東京在住のごく普通のサラリーマンです。

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